院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


ホリデイ イン ハワイ 後編


 (前編のあらすじ)私たち一家は、姪・麻希の結婚式参加を兼ねて、一週間のハワイ旅行を楽しんでいる。最終日、早朝。いつものように早起きした私は、バルコニーに出て、今回のバケーションを回想している。人の肩に勝手にオウムを乗せて記念撮影をし、金銭を要求する不埒な外人との駆け引き「勝手にオウム事件」。リムジンタクシーに乗ったのはいいが、法外な運賃を請求されるのでは?とハラハラした「リムジンサプライズ」。結婚式直前に発生した「ボタンが飛んだウェディングドレス」と「ネクタイレンタル騒動」。予期せぬハプニングがあるから旅は面白い。バルコニーの椅子に腰を下ろし、思い出し笑いをしながらの回想は続く。

 三日目は、五時半起床。皆を起こし終えたのが六時。ヒルトンビレッジ内のタパタワー前のバス乗り場から七時十分にクアロア牧場行きのツアーバスに乗り込む。裏オアフの雄大な山裾が広がる牧場で、丸一日を過ごす贅沢なツアーである。息子と私は、四輪バギーと実弾射撃。娘と細君はカネオヘ湾クルーズとジャングルジープツアー。そして四人でロケ地バスツアーと乗馬を楽しんだ。ロケ地バスツアーでは、ジュラッシックパークの名場面のロケ地を堪能。まるで自分たちが映画の中にいるような、妙に現実味のない広大な大自然。日本、それも小さな沖縄で育まれた自然に対するイメージが、磁北を見失った羅針盤のようにくるくると回転し、巨大な恐竜が突如現れても違和感なく受け入れられそうな気がする。ここには映画で使われたゴジラの足跡もあって、ガイドがこれは人工衛星からも見ることが出来ると言った。つまらないことを大袈裟に自慢する。ハワイもやはりアメリカなのだと感じた。(後日Google Earthで、その足跡がしっかり確認できた) 子供達にとって本格的な乗馬は初めての経験である。私と細君は、アメリカ留学中に仕事仲間の牧場で一度経験がある。会陰部の痛みと、内股の腫れで二人とも、二、三日は「がに股」で過ごした苦い思い出がある。ガイドの後をつけて山道や草原をてくてく歩くだけの乗馬だが、子供達にはことのほか好評であった。終始つまらなさそうに乗っていた息子が、降りるなり、「超面白いね。お父さん」と言ったのには笑った。それを受けて、アメリカに住んでいる時に、颯爽と馬を乗り回した武勇伝を話してやると、事情を知っている細君がくすっと笑った。

 四日目は、レンタカーを借りてポリネシア文化センターへ。途中、日立のコマーシャルで有名な「この木、何の木、気になる木〜」のある公園に立ち寄る。「名前も知らない木ですから〜」の木の名前は、「モンキーポッド」という名前であることを初めて知った。次にサーフィンのメッカ、ノースショワー。高い波が次から次へと押し寄せて、何人ものサーファーが波に乗ったり、のまれたり。「ワオ!ビックウェンズデイ」私が叫ぶ。「それはカリフォルニアだろ!」という突っ込みを期待したのだが、家族は誰もその映画を知らない。世代のギャップを感じる。いや待てよ。細君は知っていてもいい年齢なのだが。彼女とは世代のギャップと言うよりは、脳内に蓄積された情報量の多寡によるギャップであろう。海岸沿いには、サーフィンをするためだけにここに暮らし生きている人々の家々が立ち並ぶ。彼らがどう生活のたつきを得ているのか知らないが、こういう暮らしもまた人生なんだなと感じた。ちょっとうらやましかった。
 ポリネシア文化センターは観光客にとって定番中の定番だが、やはりこれは外せない。ハワイだけでなくポリネシアの様々な文化を肌で感じ、体験することが出来る。カヌーショーはポリネシアの伝説をベースにしたミュージカルで、サモア、ニュージーランド、フィジー、ハワイ、タヒチ、トンガ、マーケサスの各村の人々が、民族衣装に身を包み勇壮にあるいは優雅に踊る。見応えのあるオープニングパーフォーマンスである。ガイドの人がこそっと説明する。「でもほとんどの人はその島の人ではないのですよ。日本人も何人かいます」といって指さすが、現地人と見分けがつかないくらいなりきっている。しかし、裏切られた感じはしなくて、大切な伝統文化を守っていこうという情熱が一人一人に充ち満ちて、むしろ頼もしい。さてそのガイドは、小柄で可愛い感じのする日本人女性で、ここで働きながら、大学では英語を勉強する留学プランを利用しているという。彼女に案内されて、レイを作ったり、入れ墨の模様を腕や足にペイントしたり、フラダンスを習ったり、ウクレレを演奏したりした。ウクレレは思ったより上手に弾けた。路傍のショップで買う気モードで、二百三十ドルのウクレレを手に取ると、細君の目がキラリンと光ったので、そっと戻した。豚の丸焼きのディナーの後、最後は見応えのあるポリネシアンショー。充実した一日だった。


 五日目は、ダイヤモンドヘッド登頂。「テケテケテケテケ」ベンチャーズサウンドが心に鳴り響く。ハワイ・ワイキキの象徴であるこの丘に登るのは私の夢でもあった。夜明け前に出発し、日の出を山頂で迎える計画だったのだが、何度起こしても起きない家族に辟易し、「もういいや」と夜が明けての出発となった。登り初めてすぐにトイレがあり、子供達に先に済ませるように勧めたのだが、返事は大丈夫とのこと。しかし、約三分の一登ったところで、娘の顔色が悪いのに気づいた。尋ねるとトイレに行きたいと言う。引き返す?と聞くと、このまま登ると言う。次第に娘の歩調が緩慢になる。必死の形相だ。身を隠す雑木のあるところで、あそこで済ませてきたらと促すと、力なく首を横に振って、小ではなく大だと言う。しかしどうにか彼女は自分を奮い立たせながら、頂上にたどり着いた。ホノルルを一望に見渡せる絶景にも、心が動かないようだ。家族も気が気でない。頂上での開放感もそこそこに私たちは下山を始めた。すると娘の歩調が速い速い。誰も追いつけない速度でどんどん下って、登山口のトイレに駆け込む。トイレから出てきた時の彼女のすがすがしい表情を私は生涯忘れないであろう。ひとつのフレーズが思い浮かんでぷっと吹き出した。ダイヤモンドヘッドと言えばベンチャーズならぬ、便チャーズ。
 ワイキキダウンタウンを散策後、アラモアナ・ショッピングセンターでショッピングを楽しんだ。ディナーはこれまた定番のサンセット・ディナークルーズ。料理はいまいちだが、南海に沈む夕日と海からのワイキキの眺めは心に残る一頁となった。さらに優秀なツアーコンダクターである私はその後に、タンタラスの丘夜景ツアーオプションを追加していた。そこからのホノルルの夜景は息をのむ美しさだ。私は夜景が好きだ。特に高いところからの眺めがいい。ひとつひとつの灯りの下には暖かい家庭があるかも知れない。孤独な魂を浮き彫りにする灯りもあるだろう。心を惑わせるネオンもある。しかし遠く離れてみると、夜景はいつも美しい。私たちの人生もそうだ。楽しい時もあれば、つらい時もある。勝利の美酒に酔う日もあれば、敗北の苦杯を舐める日もある。しかし遠く振り返って見ると、その時々の日々は、この夜景のように美しく光り輝いているのだろう。そうであって欲しい。息子が、娘が、細君が、そして私が言葉を失って、眼下に広がる光の海に、それぞれの思いを持ち寄って、この素晴らしい休日の最後の夜を分かち合った。ホリデイ イン ハワイ。生涯忘れ得ぬ日々の、掉尾を飾るにふさわしいひとときだった。

 あかつきが、しののめに変わる時刻、街が活気づいてきた。シンフォニー演奏前のオーケストラのように、今日一日の調律を求めて、不規則に突然に、あちこちから音が聞こえてくる。しかしそれは不快な音の氾濫ではなく、鮮やかなメロディーへの収斂を期待させるものだ。今日もいい日になるだろう。
バルコニーから部屋へ戻る。息子がソファーベッドで寝ている。娘と細君はキングサイズのベッドですやすや。私は床に寝ていたのだ。これには事情がある。娘はまだ小さいので、川の字になればキングサイズベッドに三人眠れるはずで、実際トライもしたのであるが、娘の寝相の悪さから川の字就寝フォーメーションは無理だと悟った。かといって娘を端に寝かせると、ベッドから落ちまくる。そこで細君と私どちらかが床で寝るという厳しい選択をせざるを得ない。初日に細君が言った。「わたし慣れているから床で寝るわ」。家庭でも、うたた寝をして直接床に寝ることの多い細君の力強い言葉に、元来素直である私は二つ返事で従ったのであるが、最終日は「君も疲れているだろうから、今日はベッドで休みなさい」と言って、細君にベッドを譲ったのである。なんという美しい夫婦愛。自分自身の優しさに感動を覚えながら、堅い床に身を横たえた昨晩の私である。
体の節々が痛い理由が判明し、ちょっと恨めしい気持ちでベッドを見ると、娘は相変わらずの寝相で百八十度回転している。こんな寝苦しい床の上に4日間も文句のひとつも言わず我慢していたのかと、少々不憫になって細君をみると、いつものように口をパカッと開けて寝ている。私にはかねがね不思議に思うことがある。細君の鼻の穴は円形に近く、空気の換気効率は極めて高いはずなのに、なぜ口まで開ける必要があるのだろうか? 今後の研究課題である。そんな細君の寝顔を見ていると昨日の独り言のような彼女の言葉を思い出した。
「家族そろっての海外旅行なんて、もうこの先何度もあるもんじゃないから、今回思い切ってみんなで来てよかったわね」
「何言ってんの。何度でも海外旅行出来るじゃない。家族みんなで」
そう返事をしたが、今のこの家族のままでの旅行はそう何度も出来ることではない。子供との関係は日々変化していく。自我が芽生え、価値観の方向がずれ、それぞれが伴侶を得て、頼るべき相手が変わり、新しい命が生まれ、注ぐべき愛情と時間の配分がシフトしていく。しかし、それが子供の成長なのだと思う。そしてそのことを受け入れ、慣れていくことが私たち夫婦の成長なのだ。時は流れ、時代は移り、私たちを取り巻くすべてのものは変わってゆく。その中にあって、変わらずに守り続けていくことが出来るもの、それが夫婦という関係・絆なのだろう。
「お互いを愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の日の続く限り、夫としてそして妻として生涯、愛と忠実を尽くすことを誓いますか。」麻希の結婚式での神父の言葉が蘇る。昨夜、皆が寝た後に、遅くまでスーツケースのパッキングをしていた細君の姿を、夢うつつの状態で眺めたのを覚えている。今回の旅行でも計画から実行まで、私ひとりが奮闘しているように書いているけれども、日常のこまごまとしたものの準備、子供の世話など、細君の大活躍も見逃せない。ぎくしゃくと角が立つ私の行動パターン。持ち前ののんびりとしたペースで、その角を取ってくれた。ナイトテーブルに置かれている麻希からのメッセージカード、細君宛のものを読み返す。
 
リエさんへ
リエさん、いつもみんなのために忙しくがんばってくれて、ありがとう。リエさんがやさしいから、ついついみんなが甘えちゃってごめんね。麻希はこれから、リエさんみたいなお嫁さんを目指すよ! リエさんは吉川家にはもちろんのこと、麻希達にとっても大事な家族。みんなリエさんが大好きです。いつも本当にありがとう。麻希より

 麻希は普段ぼーっとしているようでいて、鋭いところがある。私もいつか細君に感謝の手紙を書くときは、同じようなことを書くだろう。そして最後にこう付け加える。私たち二人の人生は、あの日タンタラスの丘から見た夜景のように、いつまでもきらきらと光り輝いていると。




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